
1943年2月20日生まれ
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格闘家として
猪木は自身の最強を証明するため、格闘技の英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。
中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。ゴングと共に、タックル、投げ技、関節技などを禁止された猪木はアリの足元にスライディングをして、アリを転倒させる作戦に出たが失敗。それから猪木は幾度となくリングの上に寝転がり、アリの足を集中的に蹴った。そんな猪木の攻め方に、少し苛立ちを感じたアリは猪木に立つように挑発。猪木も何度か立ち上がりはしたものの、またアリの足を狙いに寝転がった。 猪木の蹴りによるダメージは確実にアリに蓄積していたが、試合中では足の痛みを晒け出すことなく常に軽やかなステップを踏み続けた。 互いに決定打を出すことはできず3分15ラウンドを戦い抜き、引き分けという結果に終わった。試合後、猪木のキックによりアリの太ももは激しく腫れ上がり、膝の裏に血栓症を患い、5年後の現役引退の大きな要因になった。 -
政治家として
1989年、「スポーツを通じて国際平和」を合言葉にスポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙に比例区から99万3989票を集めて初当選し、史上初のレスラー出身の国会議員となった。1990年8月2日、当時サッダーム・フセイン政権下のイラクが突如クウェートに侵攻(湾岸戦争)。イラクは日本を含む国際連合からの非難や制裁措置を受け、当時クウェートにいた日本人41人などを事実上の人質としてイラクヘ連行・国外移動禁止処分にする。猪木は12月1日にイラクで「平和の祭典」を行うことを発表。外務省はこれに難色を示したが、猪木は個人で費用を負担してトルコ航空機をチャーター、関係者や人質被害者41人の家族46人と共にトルコ経由でバグダードへ入った。このイベントの開催後に、在留日本人と全人質が解放された。
2013年6月5日、日本維新の会より、第23回参議院議員通常選挙比例代表での出馬を表明。同年7月21日の投開票において、獲得票数35万6606票(同会内最多得票)で当選し、18年ぶりの国政復帰を果たした。
アントニオ猪木年表 Biography of Antonio Inoki
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1960年
4月ブラジル遠征に訪れた日本プロレスの力道山と面会し、スカウトされて日本へ帰国する。
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1960年
4月11日猪木の日本プロレス入門の記者会見が行われる。
馬場正平(後のジャイアント馬場)との同時入門会見であった。 -
1962年
11月リングネームを「アントニオ猪木」とする。
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1964年
米国武者修行に出発。ロサンゼルス、メンフィス、ナッシュビルなどを転戦し
世界タッグ王座を獲得。 -
1966年
4月23日米国より凱旋帰国した猪木は羽田空港にて新団体「東京プロレス」への参戦を表明。
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1966年
10月12日東京プロレスが蔵前国技館にて旗揚げ戦。
猪木は団体のエースとしてジョニー・バレンタインと戦う。
本戦は当時では珍しかったKOかギブアップのみの決着で3カウント無しのルールだった。
この対戦にスポーツマスコミは史上初めて「デスマッチ」という表現を用いた。
猪木のファイトは観客を魅了し、リングアウト勝ちを収め、
一夜にして「アントニオ猪木」の名は日本プロスポーツ界に轟いた。 -
1966年
12月19日東京体育館大会の開催を最後に東京プロレスは単独開催を中止。
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1967年
1月5日アントニオ猪木を始めとする東京プロレス勢は
「国際プロレス」の旗揚げシリーズに協力参戦する。 -
1967年
4月6日日本プロレスはアントニオ猪木の団体復帰を発表する。
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1967年
5月5日鳥取市体育館大会において、3年2カ月ぶりに日本プロレスのリングに復帰を果たす。
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1967年
5月12日岐阜市民センターでジャイアント馬場とのタッグが実現。世に言う「BI砲」誕生。
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1967年
10月31日大阪府立体育館にてBI砲がインタ・タッグ王座を獲得。
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1969年
5月16日東京体育館にて開催された「第11回ワールド・リーグ戦決勝」にて
初公開の技「卍固め」にて優勝を果たし、日本プロレスのトップに立つ。 -
1972年
1月26日理想の団体を目指して京王プラザホテルにて「新日本プロレス」の設立を発表。
代表取締役社長となる。 -
1972年
3月6日大田区体育館にて新日本プロレス旗揚げ戦。
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1972年
7月7日東京港区青山に新日本プロレスの事務所がオープン。
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1974年
12月13日羽田空港より新日本プロレスが初のブラジル遠征に出発。
10日間に及ぶ日程で、多くの経済人も同行した。 -
1976年
6月26日日本武道館にてアントニオ猪木 vs モハメド・アリの世紀の対決が実現。
世界中がこの一戦に注目した。
結果は引分となったが、後年、この試合こそがMMAの源流だと評価される。 -
1979年
8月26日新日本、全日本、国際の3団体による「夢のオールスター戦」。
8年ぶりにBI砲が復活。 -
1981年
乱立するベルトを統一を掲げ『IWGP』(インターナショナル・レスリング・グランプリ)を提唱
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1983年
6月2日第1回IWGP優勝戦でハルク・ホーガンと対戦。
ホーガンのアックスボンバーを喰らい壮絶なKO負けを喫する。 -
1987年
10月4日マサ斎藤と伝説の「巌流島の戦い」。2時間5分14秒の死闘の末に勝利。
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1989年
スポーツ平和党を結成し、参院選に比例区で出馬し初当選。
史上初のレスラー出身の国会議員に。 -
1989年
2月6日有楽町日本特派員協会にてアントニオ猪木は会見に臨み、
ソ連国家スポーツ委員会と新日本プロレスの提携を発表。
ベルリンの壁が崩壊する半年前に、格闘技の世界での日ソ交流を実現した。 -
1989年
4月24日新日本プロレスが東京ドームに初進出。
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1989年
6月15日新日本プロレスの社長を退任し、会長に就任する。
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1989年
6月20日港区北青山に「スポーツ平和党」本部を開設。参議院議員選挙に出馬を正式表明。
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1989年
7月24日第15回参議院議員通常選挙に比例区から99万3989票を集めて初当選を果たす。
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1989年
10月14日福島・会津若松市での催し参加中、暴漢に刃物で数回切りつけられ、全治2週間のけが。
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1989年
10月25日統一会派を組んだ民社党の配慮により、
頭に包帯をし車椅子に乗った状態で初めて質問に立つ。 -
1990年
2月10日坂口征二とのタッグで蝶野正洋&橋本真也の挑戦を受け勝利。
後年、猪木の代名詞となる「1、2、3、ダー!」を初披露 -
1990年
8月2日イラクのクウェートに侵攻の影響により、クウェートにいた日本人41人が
事実上の人質としてイラクヘ連行・国外移動禁止処分とされる。 -
1990年
11月30日アントニオ猪木はトルコ航空のチャーター便により、イラク人質の家族らとイラクへ向う。
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1990年
12月2、3日湾岸戦争の日本人人質解放のきっかけとなった「平和の祭典」をイラクで開催。
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1990年
12月7日イラク人質全員の解放が決定される。
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1995年
4月28、29日北朝鮮で「平和のための平壌国際体育・文化祝典」と題したプロレス興行を開催。
2日間で38万人を動員。 -
1998年
4月4日東京ドームで引退試合を実施。当時の東京ドーム最多観客記録の7万人を動員。
元UFC王者のドン・フライと戦い、グラウンド・コブラツイストで勝利した。
引退セレモニーおいて『道』の詩を朗読。 -
2000年
12月31日大みそか格闘技イベントの元祖『猪木祭り』をプロデュース。
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2002年
8月28日アントニオ猪木をプロデューサーに「Dynamite!」が格闘技大会として
史上初の国立競技場に進出する。 -
2007年
6月29日イノキ・ゲノム・フフェデレーション(IGF)旗揚げ。
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2010年
2月1日日本人として初めて米国WWEのプロレス殿堂入りを果たした。
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2010年
9月15日北朝鮮より親善勲章第1級勲章が授与される。
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2011年
3月東日本大震災の被災地を訪問。避難所を廻り被災者を勇気づけた。
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2011年
8月両国国技館にて震災復興イベントを実施。
被災地より5000名を招待。(バス、宿泊、食事付き) -
2012年
パキスタン、アフガニスタン国境付近(ペシャワール)において、平和の祭典プロレスを実施。
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2012年
11月20日キューバ友好勲章を授与される。
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2013年
6月5日日本維新の会より参議院議員選挙に出馬表明。
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2013年
7月21日第23回参議院議員通常選挙で日本維新の会で
比例区最多得票数である35万6606票を集めて当選。国政復帰を果たす。 -
2014年
7月9日アントニオ猪木は自らを含め6名の国会議員団を組織し、北朝鮮を訪問。
朝・日友好親善協会顧問である朝鮮労働党の姜錫柱書記や労働党国際部副部長を務める
朝日友好親善協会の朴根光会長と会談を行い、
拉致問題解決に向けた取り組みや人的交流を確認し合った。 -
2014年8月
日本維新の会分党に際して、「次世代の党」に参加。
党国民運動局長および参議院政策調査会長に就任する。 -
2014年
12月12日次世代の党を離党。
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2015年
1月8日「日本を元気にする会」の設立と同時に同党に参加、同党最高顧問に就任。
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2015年
1月21日ノーベル平和賞受賞者、マララ・ユスフザイ氏とイギリスで面会。
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2015年
3月1日カンボジア五輪委員会より、五輪親善大使に任命される。
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2020年
国指定の難病「心アミロイドーシス」に罹患。
yotubeから闘病の様子を発信し続ける。 -
2022年
8月闘病の中、24時間テレビに生出演。これが最後のテレビ出演となる。
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2022年
10月1日逝去 享年79歳。